電車のドアの上に、映画の広告が出ている。「泣ける」の三文字が、タイトルと同じくらい大きい。SNSを開けば、「泣いた」が強い褒め言葉として流れてくる。ドラマで訃報の場面になると、悲しんでいる人は決まって泣いている。

涙は、悲しみの証明書のような顔をして、日常のあちこちで流通している。悲しければ泣く。泣くほど悲しい。この等式は空気のように敷かれていて、疑うことを思いつく人は、あまり多くない。疑うとしたら、自分がその等式の外に立ったときぐらいだろう。

いちばん重い日に、涙だけが出なかった

大きな柱となる人を、突然失ったことがある。そのとき、はっきり覚えているのは、涙らしい涙が出なかったことだ。

悲しくないのか、と自分に問うてみる。答えは、そう遠くないところにある。悲しい。寂しい。切ない。苦しい。不安。名前のつくものは、たしかに胸の奥で蠢いていた。それでも、涙だけが出てこなかった。まわりでは、涙を流している人もいた。

あとから近い言葉を探すなら、「凍っている」がいちばんしっくりくる。感情がないのではなく、感情ごと凍っている。分厚い氷の下では、たぶん全部が動いている。

感情はあるのに、出口だけが閉じている

苦しかったのは、涙が出ないことそのものではなかったのかもしれない。感情はある。それなのに、目に見えるかたちでは何も出てこない。悲しみを測る物差しが涙しかないと、出なかったという一点だけが証拠になって、自分の悲しみを自分で疑うことになる。

薄情だ。そう最初に言うのは、他人ではないことが多い。たいてい、自分の方だ。悲しいはずの場面で泣かなかった、という事実だけを取り出して、自分が自分に判決を下す。中身がいっぱいでも、出口だけが凍って閉じることがある。それを、長いあいだ知らずにいた。閉じた出口だけを見て、中身まで無いことにしてきた時間があった。

喪失は重たいほど、涙が出なかった。誰にでも当てはまるかどうかは、分からない。ただ、少なくとも自分の場合は、そうだった。

他人には使わない物差し

もし誰かが、「あのとき、涙が出なかった」と打ち明けてきたら、その人を薄情だと思うだろうか。たぶん、思わない。涙も出ないほどのことだったのだと、むしろそちらへ受け取る気がする。

涙が出た人にも、出なかった人にも、本当は同じだけ当てていい物差しのはずなのに、なぜか自分に向けるときだけ、厳しくなる。他人に向けるときは仕舞われて、自分に向けるときだけ取り出される。そのことに気づいても、一度下した判決がすぐに取り下げられるわけではない。気づくことと、判決が消えることは、別の場所にあるようだ。

凍結は、時間割どおりに解けない

時が忘れさせてくれる、と言う人もいる。この喪失は、長く同じ重さのまま、胸の中に置かれてきた。何年経てば半分、いつになったら終わり、という時間割は、少なくとも自分の場合はあてはまらなかった。涙は出ないまま、年月だけが過ぎていった。

おわりに

長く胸の中に置いてきたものに、今なら向き合えるかもしれない、と思って、ひとつの歌を作った。

『Tearless』という歌は、悲しくないのではなく、凍りついたように涙だけが出ない人の歌です。

作りながら、自分も少しだけ涙が出た。それで、救われた気分でいる。あの日出なかった涙が、どこにいたのかは、いまも分からない。

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