何人かで決めごとをしている場で、一度だけ「それはできません」と言った。
言い終わるより先に、その場の温度が半歩下がった気がした。
相手は嫌な顔をしない。少なくとも、私にはそういう顔には見えなかった。
彼は「わかった」と短く言って、話はそのまま次へ進んだ。
怒鳴られてもいないし、責められてもいない。
誰かが席を立ったわけでもない。
それでも、その日から、少し空気が変わったように思えた。
帰り道、いつもの角で一度立ち止まった。
信号は青だった。
朝からずっと、言い直しを作っている
その夜は『わかった』の声と顔が何度も頭に浮かんでは消してを繰り返し、なかなか寝付けなかった。
明るくなってから外へ出ると、朝焼けの街はまだ人が少なくて、開いている店もない。
自販機で一番安いコーヒーを確認せずに買う。
ひとくち飲んで、その苦さに『なにをやっているのだろう』と笑ってしまった。
歩道橋の上は風が強い。車の走る音も大きい。
声を出しても、かき消されていくだろう。
歩きながらやっているのは、あの一言の言い直しだ。
もっと短く。
もっと柔らかく。
語尾だけ変えて、もう一度。
何度作り直しても、出す先はもうない。
作り直しているうちに、できあがっていくのは謝る文のほうになる。
断っただけなのに、間違えていないはずなのに、こちらが先に謝る姿勢を取っている。
誰かに謝れと言われたわけではない。
飲み込んだ日は、出来事にならない
飲み込んだ日には、何も起きない。
予定はそのまま進む。
その場の空気も動かない。
翌日、話題にもならない。
飲み込んだ回数は、どこにも残らない。
言った日には、起きる。
空気が変わる。
変わったことは、その場にいた全員が分かる。
その週から、頼まれごとが一つ来なくなった。
ひとこと確認が増えた。
前より少し丁寧になった気もする。
それが配慮なのか、距離なのかは、こちらには分からない。
分からないまま、変わったことだけは数えられる。
我慢していた日のことは、あとから数えられない。
数えられるのは、言った日のことばかりだ。
そうして何が起きたかを並べると、いつも一件しか出てこない。
そしてその一件は、こちらの言葉から始まっている。
飲み込んでさえいれば、誰も傷つかなかったことになる。
傷つかなかったのではなく、傷ついたことが出来事にならない。
擦り減っていることには、日付がない
飲み込んだ回数は残らないのに、飲み込んだ分だけ、何かは擦り減っていく。
朝起きたら急に何かが減っているわけではない。
昨日と今日の自分を並べても、たぶん違いは分からない。
ずっと着ている服の色は、洗うたびに少しずつ変わっているのに、
「この日に色が変わった」という日はない。
たぶん、それと似ている。
擦り減ったと言おうとすると、材料が出てこない。
「いつ?」
「何があったの?」
そう聞かれても、一つの場面を指差せない。
日付がない。
大きな出来事もない。
何かをされた、と言い切れる瞬間もない。
ただ、前より少し話さなくなった。
頼まれたときに、一拍長く黙るようになった。
「大丈夫です」と言うまでの時間だけが、少し短くなった。
そういうものは、出来事としては残らない。
黙っているのは、話すことがないからではない。
話そうとすれば、その瞬間が新しい一件になるからだ。
空気が変わる。
相手の顔を見る。
あとになって、その顔を思い出す。
また「こちらから始まったこと」が一つ増える。
そのうえ、口に出した瞬間、自分がわがままの側に入るような気がする。
誰かがそう言ったわけではない。
たぶん、言われたことすらない。
それでも、その分類は、誰かが口を開くより先に、自分の中で終わっている。
飲み込めば何も起きない。
言えば、何かが起きる。
そう覚えてしまった。
言われる側に立つとき
逆の側に立つこともある。
誰かから「それは嫌だ」と言われた瞬間、こちらの中でも同じものが走る。
相手が何を思って言ったのかを確かめるより先に、
「あ、悪いことをしたのか」
と思っている。
そこまでが、とても速い。
考えて決めたわけではなく、決まってしまう。
速すぎて、なぜそう決まったのかは後に残らず、決まったという結果だけがある。
嫌だと言う側も、言われる側も、どちらかが悪い出来事にしないと落ち着かないみたいに。
その間にあるはずの、ただ「嫌だった」という事実だけが、うまく残らない。
おわりに
数日後、こちらから短く謝った。
歩道橋の上で作っていた言い直しの、いちばん短いものを使った。
何について謝っているのかは、自分でもはっきりしない。
相手は、
「ああ、うん」
と軽く受け取って、それで終わった。
しばらくして、頼まれごとがまた一つ来た。
前と同じ調子の声で。
空気は、二日ほどで元に戻った。
戻したのはこちらの言葉で、
戻ったことに、こちらは安心している。
『No Place to Hide』という歌は、言いたいことを言えば、悪意が向けられる気がして、言いたいことが言えない人の歌です。




