大事なことほど動けない、という逆説について

玄関のゴミ袋を三日と言わずとても長い間、そのままにしてしまったことがある。出すだけでいい。ドアを開けて、数歩歩くだけ。それなのに、見て見ぬふりをして部屋の奥にまた戻る。どうでもいい用事なら、すぐに片づけられる。なのに、本当に大事なことほど、手が止まってしまう。

Five Minutes Forever』で書きたかったのは、この奇妙な逆説のことです。大事なこと 動けない、という状態の内側から、ゆっくり言葉にしてみたいと思う。

「大事なこと 動けない」の正体

やらなきゃ、と思う回数が増えるほど、体は重くなる。これは気合いや根性の問題ではないんだと思う。大事だと認識した瞬間、頭の中で失敗の可能性が先に膨らむ。何度も何度もシミュレートして、うまくできなかったときの自分を、先回りして何度も何度も想像してしまう。

結果として、動き出す前に疲れ切っている。歌詞に書いた「心臓が痛いのに 体は動かない」は、誇張ではなくて実感でした。

大事なことほど、重みが足枷になる。大事だから動けない。動けないから、さらに大事さが膨張する。この悪循環の入り口はとても静かで、気づいたときにはもう奥まで進んでいる。

そして厄介なのは、動けない自分を自分で客観的に見ると、ただサボっている人にしか見えないこと。内側では心臓が走り続けているのに、外側は止まって見える。この温度差が、誤解と自己嫌悪の両方を太らせていく。

期限が近づくほど、遠ざかる影

カレンダーの赤い印が迫ってくる。最近はカレンダーじゃなくてスマホの人の方が多いのかな?。ともあれそうした期限の印が迫ってくる。普通なら、焦りは行動の燃料になるはずで。でも、ある臨界点を越えると、焦りはむしろ麻痺に変わる。

「期限が来るほど遠ざかる影」と書いたのは、そういう身体感覚です。締め切りが近いほど、自分との距離が開いていく。鏡の中の自分が、別人のように遠く見える夜がある。心臓だけが独りで速く動いていて、体は床に縫いとめられている。そのちぐはぐさが、じわじわ神経を削っていく。

焦りが限度を超えると、体はたぶん、安全装置を下ろす。これ以上無理をさせると壊れると判断して、ブレーカーを落とす。外から見れば怠けにしか見えない停止は、内側から見るとただの緊急停止なのだと思う。

五分で終わる作業が、永遠に変わる

最後に泣きながら取りかかって、結局五分で終わる。五分というのは大げさにしても、自分が思っていたよりも遥かに短く終わる。何度も経験してきました。終わってから、なにをしてたんだろう、と呆然とする。あの虚しさが、この曲の核です。

五分の作業が、なぜ何日も何週間も永遠になってしまうのか。それは、作業自体が重いのではなく、作業にまとわりつく「やらなきゃ」の総重量が重いのだと思う。五分の純粋な所要時間と、そこに積もっていく自己嫌悪の時間は、別のレイヤーにある。曲名を『Five Minutes Forever』にしたのは、五分と永遠が同居する、その矛盾した時間感覚に名前をつけたかったから。

終わったあとに残るのは、達成感ではなくて、空洞。なんでこの五分が、あんなに遠かったのかという問いだけが、机の上にまだ残っている。

おわりに

この文章を読んでいるあなたが、いま大事なこと 動けない状態のまん中にいるなら。それは怠けではないし、人間として駄目なわけでもない、とだけ静かに置いておきます。歌の中で、わたしも時折同じ場所にいます。玄関のゴミ袋と、赤い印のついたカレンダーと、動かない体と一緒に。解決は差し出せないけれど、同じ場所に座っている誰かがいる、ということだけは、残しておきたいです。

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