定時を少し過ぎていた。
今日頼まれた分の仕事は、夕方までにすべて終わっている。新しく頼まれたものもなければ、明日の分もまだ手元には来ていない。
保存して、画面を閉じた。
あとは帰るだけだった。
けれど、顔を上げると、まわりの席はまだほとんど埋まっていた。誰かが話しているわけでもない。キーボードを打つ音と、ときどき椅子が軋む音がするだけだった。
誰も立たない。
帰っていいはずなのに、なぜか自分も立てなかった。
もう一度、画面を開いた
少し迷ってから、さっき閉じたばかりの画面をもう一度開いた。
終わった仕事を最初から読み直す。直すところはなかった。さっきも確認したし、その前にも確認している。これで三回目だった。
数字が合っているか、表の端まで目で追って、それでも何も見つからないまま画面を閉じた。
今度は、明日でもいい連絡の下書きを一件書いた。送るほどの内容でもないので、そのまま保存だけしておく。
机の上も少し片付けた。ペンを立て、紙を揃え、使い終わった付箋を一枚捨てる。
そこまでしても、もう本当にやることがなかった。
時計を見ると、定時から十分ほど過ぎていた。
まわりを見る。
まだ誰も立っていない。
「まだかな」
そう思った瞬間、自分でも少し変な感じがした。
何を待っているんだろう。
帰りたいのに、帰る側にもなれない
別に、ここにいたいわけではなかった。
仕事を続けたいわけでもないし、誰かと話していたいわけでもない。むしろ今日は、早く帰って何も考えずに過ごしたかった。
なら帰ればいい。
頭では分かっている。
それでも、自分だけ先に席を立つことを想像すると、胸のあたりが少しざわついた。
早く帰る人だと思われるのが嫌なのかもしれない。暇だったと思われるのが嫌なのかもしれない。まだ働いている人たちの中から、自分だけ先に抜けていくことに、妙な後ろめたさを感じているのかもしれない。
けれど、これまで誰かに「早く帰るね」と言われたことがあるわけではない。
そもそも、誰もこちらを見ていなかった。
自分が今帰ったところで、たぶん誰も気にしない。明日になれば、そんなことすら覚えていないと思う。
それでも立てなかった。
残りたいわけではない。
でも、自分だけ先に帰る人にもなれない。
そのどちらでもない場所に座ったまま、また何となく画面を開いた。
「お先に失礼します」
三十分近く経ったころ、少し離れた席の人が立ち上がった。
鞄を持って、こちらへ歩いてくる。
「お先に失礼します」
何人かが顔を上げて、「お疲れさまです」と返した。自分も同じように「お疲れさまです」と言った。
その人は、そのまま普通に帰っていった。
誰も嫌な顔をしなかったし、時計を見た人もいない。もちろん、呼び止める人もいなかった。
あまりに何も起きなかったので、少し拍子抜けするくらいだった。
同じ時間まで座っていた人なのだから、自分だって同じように帰ればいい。
そう思って、鞄に手をかけた。
でも、すぐに手を離した。
今立ったら、さっきの人が帰るのを待っていたみたいに見える気がした。
誰にそう思われるのかは分からない。
たぶん、誰もそんなことは考えない。
それでも、少し待った。
時計を見て、五分ほど経ってから、ようやくパソコンの電源を切った。
三十分
椅子を戻して、鞄を持ってフロアを出た。
振り返ると、まだ何人か残っていた。
最後ではなかった。
そして、最初でもなかった。
それを確認したとき、少しだけ安心している自分がいた。
結局、この三十分でやったことといえば、終わった仕事を読み直して、送らない下書きを一件書いて、机の上を片付けただけだった。
どれも今日やる必要はなかったし、誰かに頼まれたことでもない。
残業をしたかったわけでもない。
ただ、自分で「今日はここまで」と決めることができなかった。
エレベーターの前まで来て、ボタンを押した。
おわりに
エレベーターはなかなか来なかった。
静かな廊下に、一人で立つ。
さっきまで、自分だけ先に帰ることが怖かった。
今は一人でエレベーターを待っている。
帰りたかったのに、帰るのが怖かった。
残っていたいわけではなかったのに、残っているほうが少しだけ安心だった。
どちらが本当なのか、自分でもよく分からない。
人に合わせるのが好きなわけではない。それどころか、ときどき息苦しくなる。
でも、そこから自分だけ外れることも怖い。
一人になりたいと思うことがあるのに、本当に一人になると落ち着かない。
たぶん、どちらかを選べずに、その間にいる。
帰る人と、残る人。
合わせることと、外れること。
一人でいることと、誰かの中にいること。
そのどちらにも完全には入れないまま、今日も境目のような場所で立ち止まっていた。
エレベーターのランプが点いた。
扉が開いて、中に乗り込む。
閉じるボタンを押しながら、ふと思った。
今日も、自分で終わりを決めたというより、
誰かが先に動いたから、そのあとを歩いただけだった。
『Liminal Spaces』という歌は、まわりに合わせられているのに、合わせるたび誰にも気づかれない孤独が一つ分ずつ増えていく人の歌です。






