昼休み、ランチの輪の中にいる。仕事や趣味の話が愚痴に変わって、また笑いに戻る。相槌のタイミングは合っている。笑う場所も、間違えていない。輪の外にいるわけではない。ちゃんと中にいる。
なのに、会話が一枚ガラスの向こうから届く。耳で聞いているはずなのに、字幕を読んで理解しているような気分になる。声より少し遅れて意味が来て、笑うところだけ音が合う。欠席しているのではない。出席したまま、隔たっている。
名前も知らない人まで
帰り道のコンビニで、レジの列に並ぶ。前の人の背中が、なんだか満ち足りて見える。理由はない。表情が見えたわけでも、何かを聞いたわけでもない。ただの背中が、幸せそうに見える。
カフェのカウンターでは、隣の人が欠伸をした。私より気楽そうに見えた。夜、布団の中でスマホを開けば、スクリーンの向こうで友達が笑っている。親しい人も、名前も知らない人も、区別がない。全員が、自分より幸せそうに見える。
訂正が、見え方に届かない
この見え方には、いつも即座に訂正が入る。そんなはずない。あの人にも痛みがあるはずだ。全員が幸せなわけがない。訂正は正しい。理性は、正解をちゃんと持っている。
問題は、その正解が見え方を一ミリも動かさないことだ。理性と心が、別々の回路で動いている。わからないから苦しいのではない。理性ではわかっているのに、心がわかっていないから苦しい。間違いだと自分で分かっている見え方の中で、毎日を過ごすしかない。
透明な壁、という言い方をするなら、その壁は自分と人のあいだにあるというより、自分の理性と自分の心のあいだにあるのだと思う。理性の側がいくら叩いても、心の側には響かない。
壁の向こうから見たら
ひとつ、確かめようのないことがある。ランチの輪で頷いて笑っていた自分は、誰かの目にどう映っていたのか。相槌のタイミングは合っていた。笑う場所も間違えていなかった。だとすれば、あの輪の中の誰かが、自分を「息の合っている側」に数えていても、おかしくない。誰かにとっての「幸せそうに見える人」の一人に、自分も入っているのかもしれない。
それが分かっても、壁は消えない。ただ、この見え方が一方通行ではないらしい、ということだけが残る。
おわりに
明日もたぶん、みんなは幸せそうに見える。レジの列の背中も、隣の席の欠伸も、スクリーンの向こうの笑顔も。そして明日もたぶん、「そんなはずない」という訂正が、同じ速さで入る。効かないと知っている訂正を、それでもやめられない。それが良いことなのか、ただの癖なのかは分からない。見え方に一度も勝てないまま、訂正は今日も朝から夜まで入り続けた。届かない側の一日にも、出席だけは、たしかにあった。
『CALM』という歌は、「そんなはずない」と理性ではわかっているのに、私だけが苦しんでいるように思ってしまう人の歌です。






