夜の部屋で、スマホが光る。「今度飲もうよ」。その瞬間、たしかに嬉しかった。なのに、次の数秒でやることは決まっている。画面を伏せる。光っていた場所が暗くなって、部屋がまた静かになる。そういう夜がある。
嬉しいのに、伏せる。この二つの動作のあいだに、説明できる理由はまだない。ただ、既読をつけたら何かが始まってしまう、という感覚だけがある。本当は、始まってほしいことのはずなのに。
打っては消える二時間
しばらくして、もう一度画面を開く。「行きたい」と打って、消す。もう少し軽い言い方に変えて、また消す。日程を聞き返す文面まで作って、送信の手前で消す。そうやって二時間が過ぎて、最後に送られるのは、たいてい別の言葉だ。
「ごめん その日 微妙かも」
本心は、最初に打った方にあった。それなのに、指が最後に選ぶのは、いつも断りの方になる。
会いたくないから、ではない
このねじれを「会いたくないから逃げた」と読むと、たぶん読み間違える。順番が逆なのだと思う。会いたさが大きすぎるから、逃げる。どうでもいい相手なら、すぐに既読をつけて「行けたら行く」で終わっている。大事な相手だから、近づいた先で何かを損なう場面まで、先に見えてしまう。距離が縮まるほど、失うものの輪郭がはっきりしてくる。だから失う前に、自分から遠ざかっておく。
「会いたい」と「逃げたい」は、別々の感情ではないのだと思う。ひとりでいたくない、という同じ場所から、同じ音量で鳴っている。だから、片方だけを止めることができない。
断りを送った直後には、安堵がある。もう迷わなくていい、という静けさ。そしてその安堵のすぐ横に、「また自分で壊した」と分かっている自分が、ちゃんといる。どちらも本物で、どちらかだけを消すことはできない。
断りを受け取った側
相手の画面に、この二時間は映らない。打っては消えた「行きたい」も、送信の手前で止まった指も、届かない。届くのは、短い断りの一行だけ。相手はそれを見て「そっか、また今度ね」と返すかもしれないし、少し残念に思うかもしれない。誘う側も、送るまでに小さく勇気を使っていたかもしれない。ここには、責める必要のある人がいない。見えないものが多すぎるまま、ただすれ違っている。
おわりに
次に画面が光る夜も、たぶんまた伏せてしまう。「今度こそ既読をつけよう」と書けたら格好がつくのだけれど、そういう約束はできない。ただ、ひとつだけ確かなことがある。断りの一行に、二時間かかったということ。会いたくなければ、二時間はいらなかった。あの時間は、無駄にした時間ではなくて、「会いたい」が最後まで鳴り続けていた記録として残っている。
『Want You, Fear You』という歌は、「会いたい」と「逃げたい」のどちらも消せないまま、この矛盾をいつも抱えている人の歌です。





