朝、鞄から出して机の端に置いたポーチがある。手のひらに収まるくらいの布のもので、角に小さな刺繍が入っていて、中にはリップと目薬を入れている。パソコンが立ち上がるのを待っているあいだに、隣の席の人が通りかかって、足を止めた。
「それ可愛いですね」
顔が上がって、「あ」と声が出た。その次の一秒には、もう手が動いている。片づけるついでみたいな顔でポーチをつかんで、机の一番上の引き出しを開けて、中に入れる。口からは「安物ですよ」と出た。目はもう、立ち上がりかけの画面に戻している。相手は「そうですか」と笑って、自分の席に戻っていった。
引き出し
引き出しは、乾いた音を立てて閉まった。取っ手には、まだ手を置いたままでいる。視界の端で、さっきの人はもう椅子を引いて、キーボードを叩きはじめている。こちらを見てはいない。
閉まった引き出しの中に、言われたばかりのものが入っている。入れたのはこの手だ。取っ手を少しだけ引いて、隙間に布の角が見えたところで、また閉める。
こういう一言が、ずっと欲しかった。それが目の前まで来たところで、この手がポーチごと机の中へしまった。取っ手に手を置いたまま、自分が嫌になる。
急に
昼休み、同じ机で弁当を食べていた。最後の一口を入れて、蓋に手をかけたところでスマホが短く震えた。画面に出た名前は、何年も見ていなかったものだった。
「元気?」
嬉しい。なんで今さら。どちらが先ということもなく、同時に来た。蓋にかけた手がそこで止まって、背中が椅子の背もたれから離れる。指がロックを外して、入力欄を開く。「元気だよ!久しぶりだね。連絡くれてうれしい」まで打ったところで、親指が削除の上に乗って、文が右端から消えていく。空になった欄に「元気だよ。急にどうしたの?」と打って、送信を押す。ここまで一分もかかっていない。
「急に」と打った親指が、まだ画面の上にある。弁当の蓋は開いたままで、箸は置いた。椅子を少し引いて、腰が浮きかけたところでまた座る。返事は、画面が暗くなる前に来た。
「ふと思い出しただけ。元気ならよかった」
読み終えても、目は画面から離れない。吹き出しの下に、まだ何もない場所がある。入力欄を押すと、キーボードが上がってきた。何も打たないまま下ろす。そこに次の一行が増える前に、横のボタンで画面を消した。引き出しを開けて、ポーチの横にスマホを置いて、閉める。
弁当の蓋を閉めて、袋の口を結ぶ。膝の高さの引き出しから、震える音はしてこない。「終わってよかった」と思っている。欲しかったくせに。
何も変わっていない午後
午後、隣の席で椅子の引かれる音がして、足音がこちらへ来た。顔を上げるより先に、左手が引き出しの取っ手にかかっていた。来週の資料の話だった。声も調子も午前と同じで、ポーチのことは出なかった。こちらも普通の声で返事をして、話は五分ほどで済んだ。相手が席に戻ってから取っ手を離して、握っていた手を机の下で開いたり閉じたりした。引き出しは、昼から一度も開けていない。
おわりに
定時を過ぎて、フロアの人が減った。パソコンを落として、引き出しを開ける。朝に入れたポーチが、入れたときの向きのまま、そこにある。ポーチに伸びた手が、途中でその横のスマホをつかむ。画面はつけないまま鞄に入れる。引き出しは、ポーチを入れたまま閉めた。鞄を持って立つ。
『Want You, Fear You』という歌は、人と繋がりたいのに、近づくほど怖くなって、「会いたい」と「逃げたい」をいつも一緒に抱えてしまう人の歌です。





