昼休み、向かいで弁当を食べていた相手が、箸を止めて「名前で呼んでいい?」と聞いた。「いいですよ」と答えた。相手は箸を持ち直して、続きを食べた。
その日から、相手は名前のほうで呼ぶ。仕事のことで呼ばれるときも、昼の席で顔を上げるときも、そうだった。こちらも、そうしようと思っていた。相手が下の名前で呼んでくれるなら、苗字に「さん」を付けるのはやめて、同じように名前で呼び返したかった。難しいことではない。話しかけるときの最初の言葉を変えるだけでいい。
それなのに、話しかけようとするたび、口から出るのは苗字に「さん」を付けた呼び方だった。頭の中では名前で呼んでいるのに、声になるときには前のままになっている。
決めてから席に着いた
ある昼、今日は名前で呼ぼうと決めて、弁当を持って席に向かった。向かいに座って蓋を開けると、相手は名前のほうで呼んで、休みの日の話をはじめた。相づちを打ちながら箸を動かした。
聞こうと思っていたことがあった。話が一区切りしたところで箸を置き、相手を見て、息を吸った。出てきたのは、苗字に「さん」を付けたほうだった。
聞きたかったことは、その呼び方のまま聞いた。相手は普通に答えて、おかずを一つ口に入れてから、さっきの話の続きをはじめた。隣のテーブルから、下の名前で呼び合っている声が聞こえた。
箸を取って残りを食べながら、決めてきたことが声になる手前で消えたのが、少し情けなかった。相手の蓋が閉まるまで、話は普通に続いた。
「癖で」
別の日の昼だった。相手が、笑いながら「さん付け、なんかまだ距離あるよね」と言った。
「癖で」と笑って返して、弁当に目を落とした。
相手は、午後に頼みたいことがあると言って、その話に移った。口の中のものを飲み込んでから返事をした。頼まれたことを聞いているあいだ、さっき返した自分の声が、少し嫌だった。
その夜、部屋で
夜、部屋で弁当箱を洗った。角のところを指でこすって、蓋と箸は別に洗って立てておいた。
弁当箱を拭いているときに、相手の下の名前を声に出した。「さん」は付けなかった。拭き終えて蓋をして、箸と一緒に鞄の横に置いた。
おわりに
翌日の昼、弁当を持って席に行くと、相手が先に座っていて、弁当の蓋はもう開いていた。こちらを見て、名前のほうで呼んで手を上げた。
苗字に「さん」を付けて返して、向かいに座り、弁当の蓋を開けた。
『Want You, Fear You』という歌は、人と繋がりたいのに、近づくほど怖くなって、「会いたい」と「逃げたい」の両方をいつも抱えてしまう人の歌です。





