言われたのは自分じゃないのに、指先が冷たいままだった

言われたのは自分じゃないのに、その席まで歩けなかった

入力を一件保存して、モニターの縁に貼ってある付箋を見た。

 

昼に書いたもので、少し離れた席の人に一つ確認する用件が書いてある。

 

五時までに要る。

 

聞けば十秒で済むことだった。今のうちに行っておこうと思って、椅子を引いた。

そのとき、その席のほうから声がした。

 

「これ、前にも言ったよね」

「すみませーん」

 

と笑う声が続いた。

言った人はそのまま自分の席へ戻り、言われた人は画面に向き直って、すぐに打つ音がし始めた。顔を上げた人は誰もいなかった。

 

椅子を戻して、座り直していた。キーボードに手を置いても、次の数字が出てこない。指先が冷たくなっている。言われたのは自分ではない。それなのに、立たなかったのは自分だった。

 

普通に近づいていく人

入力に戻ろうとして、数字を一つ入れた。

声のした席では、その人がもう次の画面を開いている。

途中で立ってプリンターまで歩き、紙を取って戻ってきた。

 

二時半を過ぎたころ、別の席の人がその席へ歩いていった。

何か短く聞いて、二人で少し笑って、自分の席へ戻っていく。

自分にも、あの席へ行く用がある。

付箋を見て、そのまま座っていた。

 

椅子にいる理由

代わりに、明日でもいい入力を先に進めた。

それが終わると、届いていた回覧を開いて読んだ。

急ぐものは一つもなかった。

 

指先の冷たさは戻らないまま、時計だけが三時を回り、四時に近づいていく。

回覧の二枚目を読んでいるところで、自分が椅子にいる理由を作っているのだと気がついた。

 

その人が怖いわけではない。

聞きに行くのはいつものことで、今日が特別なわけでもない。

 

何が引っかかっているのか、考えてもよく分からなかった。

その人はもう笑っていた。

 

言った人も戻って、周りは何も変わっていない。

自分だけが、まだあの一言のところにいる。

何を言われたわけでもない自分が。

 

十歩

時計を見ると、四時半を過ぎていた。

五時までに要る。

 

付箋は剥がさないまま立って、その席へ歩いた。

十歩ほどだった。

 

その人は隣の人と、仕事とは関係のない話をして笑っていた。

こちらに気づいて振り向く。

 

用件を言うと、

 

「あ、それはそのままで大丈夫です」

 

と、その場で答えが返ってきた。

十秒もかからなかった。

礼を言って背を向けると、後ろでさっきの話が続いていた。

 

席に戻り、聞いた答えを打ち込んで保存した。

用は済んだのに、キーを打つ指先はまだ冷たかった。

 

このことは誰にも言えない。

言えば「何も言われてないでしょ」で終わるし、その通りだと自分でも思う。

 

声のした席

定時になると、帰り支度をする人が出てきた。

その人も鞄を持って立ち、

 

「お疲れさまです」

 

と言って出ていく。

自分も「お疲れさまです」と返した。

 

付箋を剥がして二つに折り、ごみ箱に入れた。

モニターの縁には、もう何も貼っていない。

 

顔を上げると、声のした席には椅子が入れてあって、机の上に何も置かれていなかった。

 

鞄を持った。

 

『CALM』という歌は、私だけが苦しんでいるように思ってしまう人の歌です。

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